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題字 西尾智美さん
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安倍七騎とは
具体的には誰なのか
地名・伝説に残る安倍七騎
小説「安倍七騎」
登場人物・相関図
小説「安倍七騎」とその風景
掲載記事
安倍奥観光案内
七騎のつぶやき(ブログ)
ヘッドライン先情報
サイト名
七騎のつぶやき
サイトの説明
安倍七騎に関することや徒然に思い浮かんだことを書いていきます。
作成
CLOG
サイトURL
http://abeshichiki.eshizuoka.jp
浪人坂のお話など(vol.231)
今日は藤枝市は野田沢(のたんざわ・旧志太郡岡部町)にある増田辨之助(昭和3年生まれ:ますだ・べんのすけ)さんのお宅を訪ねた。増田さんは、『安倍七騎』初版発行後すぐに拙宅に電話をくれ、本を買い求めてくれた方。だから、5~6年前からのお付き合いになる。午後3時、小雨にけむるなか、野田沢に架かる赤い小橋をこえ、増田さん宅を訪れた。玄関引き戸を開けるとそこは土間、土間の左手が客間、客間の右が居間といった日本古来の佇まいの住宅である。増田さん宅でのお話―。・この岡部の殿(との:拙著『安倍七騎』に登場する朝比奈氏の菩提寺があるところ)と静岡の飯間(はんま:藁科川沿いにあった小瀬戸城の兵を養うために“ご飯”をつくったところ)を結ぶ野田沢の道の歴史は古い。徳川家康が駿府城入城にあたり、通ったとされる道でもある。・この道沿いに「義経のかくれ石」があったが、道の拡張整備にあたり、方丈さんによるお祓いののち、土中に埋められた。・その昔、ひとりの浪人かこの道を行くと、侍ふたりと決闘となり―ふたりに前後をはさまれたのち―斬られた。その“ローニンさん”を村人が介抱したとき、おのれの死を悟った“ローニンさん”は「ここで(―斬られた場所で―)何事があっても怪我はさせない」と言い、しばらくののち死んだという。その言葉のとおり、そこの坂「浪人坂」では怪我がでないといわれている。増田さんの弟さんも、ここで若いドライバーが運転する乗用車と衝突したが、無事に済んだという。かれこれ小一時間、こんな話に花が咲いた。赤い小橋のたもとに実った真っ赤な南天の実増田さんのお宅並んだ養蜂箱の右手(野田沢の下流側)に「義経のかくれ石」が埋まっているローニンさんのお墓。今も村人による香華が絶えないお墓に刻まれた文字(90度回転で見てください)
(2012/01/21 20:03)
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お食い初め(vol.230)
生まれて100日目にお食い初めという儀式が行われる。これは、その子が一生食べるのに困らないようにという、親の願いをこめたもの。さて、前号にでてきた義叔父から聞いた話―。私のお食い初めには、大崩海岸の黒鯛が用いられた。これは、祖母にお食い初め用に釣ってきてと頼まれたものだそうで、だから「克典は魚釣りが好きになったんだ」と祖母や義叔父に言われたものだ。釣好きとなっため、少年時代に義叔父に安倍川へ鮎釣りに連れて行ってもらい、安倍七騎を知ったということになる。であるから、私がお食い初めで黒鯛を食さなければ、小説『安倍七騎』は生まれなかったということか。今日、娘のお食い初めを行った。それに用いたのは、女の子らしく(?!)赤い鯛とした。映画『武士の家計簿』のセリフ 「鯛じゃ、鯛じゃ‥」同映画では、家計が苦しく鯛が買えなかったため、紙に鯛の絵を描いて上のセリフを連呼していた。―当時、これだけの鯛を調達できたのであれば、娘はお姫様並みだよね。―と妻との会話。記念にとったのは―、娘の足がた
(2012/01/15 21:45)
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続きのお話(vol.229)
昨日アップしたvol.228の続きです。昨日、玉機橋の話をしましたが、最近開通した、足久保と油山をつなぐ県道29号線の筋もあったそうです。油山にある駿河変電所の南側に(油山川をへだてたあたりに)小山がありますが、その山道があり、その道幅は1メートルにもみたないものだったそうです。だから、義叔父が自転車でそこを通る折、反対側から人や自転車が来ると、やり過ごすのに大変苦労したそうです。さて、その頃の玉川は桂山界隈の話―。見月山の桂山側の山ろくには、当時、サナトリウム(結核の療養所)があったそうです。当時、結核は映画『絶唱』(私の小学生の頃は、山口百恵さん、三浦友和さん)に見るように、死の病で、桂山では、そのサナトリウムを「死病院」と呼んでいました。そのサナトリウムの患者さんの洗濯物は中河内川でジャブジャブと洗われていました。当時の衛生意識はお粗末で、患者の洗濯物を洗う1メートル下流で水浴びをするといった具合だったので(―なぜならば、当時の村人の考えだと「三尺も流れれば、汚れ・菌はなくなる」といったものでした―)、それによる感染者もいたようでした。さて、その後の義叔父一家の話―。義叔父とその父は、天王町のバラックにすんでいましたが、家族全員で、も少しマシな家に住もうと、家を建てることになりました。その建材は、桂山の材木で、上助の対岸の山の木でした(当時、其の近くには、火葬場があったそうです)。木を切り出す作業を切り盛りした人は義三郎さんと云う人で、みなに“ギサ兄ィ”よばれていたそうです。当時、川筋の木材は、トラックなどでは運び出しません。桂山の木材は、中河内川の流れにのせて、川を下ってゆくのでした。筏を組んで流された木材は、今の水道町の辺りで引き揚げられます(まさに、“みずみち”の終点ですね)。やがて、念願叶って天王町に家を建てたのですが、それでも壁は空襲で焼け焦げたブリキの波板で、隙間風が吹き込む家だったそうです。
(2012/01/14 23:17)
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遅れ馳せながら―、(vol.228)
目下3ヶ月になる娘の世話で、ブログも疎かな状態です。遅れ馳せながら、皆さま、明けましておめでとうございます。昨年は世間的にみると、震災一色の感で一年が終えました。今年は安らぎの年でありますよう、心から祈ります。さて、正月2日には、静岡の義叔父(東京大森、昭和5年生まれ)が遊びに来、昭和20年の終戦日のころの話をしてくれました。当時、義叔父自身は、彼の父と静岡の天王町に住んでいて、彼の母と妹が、玉川は上助にあった三軒長屋に疎開していたそうです。そのころの静岡市街は空襲で焼け野原だったそうです。だから、天王町の家も掘っ立て小屋だったそうです。終戦のその日、義叔父は天王町の自宅から自転車(自転車といっても、タイヤがゴムホースのようなもので、すぐにホイールから外れた)で玉川に向かいました。当時、牛妻の玉機橋は、大雨によって一部が破壊され(木造だった)、渡るのに苦労したそうです。なんとか、油山側に渡り、松野あたりまできたころ、大勢の大人たちが外で話をしていました。「おじさん、どうしたの?」と訊くと、「日本が戦争に負けたんだって」「そうか、負けたのか‥」「何処へ行くんだ?」「おふくろさんと妹が玉川の星野さんところへ疎開しているから、これから行くんだよ」「そうか、けどもう戦争は終わったから、もう行かなくてもいいんだよ」なんて、会話があったそうです。
(2012/01/13 21:54)
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寒くなりましたですな(vol.227)
12月の声を聞き、寒さがグンと迫ってきました。そんなときは、やっぱりコレですな。家業だった焼津港運送のトラックドライバー佐々木さんからの贈り物。佐々木さんとは、40年来のお付き合い。氷雨が降る今夜は、水しぶきをあげて走り去る車の音を聞きながら、ぽつりぽつりと飲(や)っています。
(2011/12/01 22:41)
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安倍七騎とは
遠い昔、安倍川流域に「安倍七騎」と呼ばれる"七人の侍"がいたという伝説がある。
この武士団については諸説あり、史料や伝える人々によって、南北朝時代、今川時代、武田時代と様々。
七人の姓名もまちまちではあるが、安倍川流域に確かに存在した英雄たちであったことは間違いない、.
小説「安倍七騎」
著者・発行者 浅羽克典
発売元 静岡新聞社
印刷・製本 図書印刷
ISBN 4-7838-9689-5
第7回静岡県自費出版大賞受賞作品
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