「安倍七騎とは何者だったのか」でも触れたように、安倍七騎については謎だらけです。
『駿河国新風土記』(新庄道雄著 / 天保5年(1834)脱稿)の一節にも、「其姓氏も一定の説なし」とあります。
ここでは、「一定の説なし」といったことを受けて、その「諸説」について触れます。
『駿河国安倍七騎姓氏覚』(静岡市葵区足久保 石谷氏宅 蔵)
一、 御神君御紋付頂戴 落合村 狩野九郎兵衛
二、 柿島村の内、上落合に塚有 大村五郎左衛門
三、 腰越村の内、菅沼と言う所に塚有 長島甚太右衛門
四、 平野村の向村、岡村に塚有 末高石見守
五、 俵峰村 杉山仁左衛門
六、 郷島村 海野総右衛門
七、 足久保村 石谷重郎左衛門
『安倍七騎姓氏覚』(江戸中期)
安倍郡七騎
江戸在 末高半左衛門
安倍郡俵峯村 杉山小兵衛
〃 足久保村 石谷五左衛門
〃 内匠村 長倉佐渡守
〃 津度野村 望月
〃 柿島村(江戸在もあり) 朝倉善右衛門
〃 遠藤新田村 遠藤五太夫
朝倉氏は徳川家へ出(仕)七騎とさだかと云難し。右の子細は遠州小山城(金谷の南)において武田より安倍七騎を御頼みありて加勢、千騎(をつけて)即ち七騎を奉り、小山城を警護し数日籠城候よし。(時に)徳川勢二千騎にて二手に分れ、金谷峠に陣を取る。七騎小山城 物見より之を見、丸子宿へ廻り、後より攻入り、徳川勢を悉く打負かし、千五百騎打死すと云う。徳川勢敗軍して光明山へ引退すと云う。
『修訂駿河国新風土記(上)』(昭和50年6月20日印刷発行 新庄道雄著 国書刊行会)
杉山氏 里民仁左衛門の先祖杉山太郎左衛門・杉山小太郎と称す、世に伝て安倍七騎の一人なりと云、又此村に望月四郎右衛門と云るものありて是も七騎の一人なり、今其家絶たり、杉山氏の家に今川義忠朝臣を始め代々の文書、武田晴信勝頼の文書等数通を蔵す、其中に望月四郎右衛門との連名のものあり、弓矢馬具等今に存す、道雄曰「この郡の俗説に安倍七騎の武士といふ事あり……此村の杉山望月、足久保村の石谷、落合村の狩野、村岡村の末高、柿島村の朝倉、中野村の海野等の七人なりとも、此海野朝倉は七騎よりは大家にて家格七騎の上にありて上落合の大石、牛妻村の森谷沢に一人ありて七人なりしとも云、今川武田領国の頃の諺に残れるなり……
また、『甲陽軍鑑』に安倍七騎の一として村松某の名が見られるほか、静岡市葵区平野の大村家や、葵区井川の安倍家にも七騎の一であったという言い伝えがあります。
*拙著『安倍七騎』では、七騎の一として、石貝郎左衛門(足窪村)をとりあげましたが、上記に見る足久保村の石谷(いしがや)氏と石貝(いしがい)氏は同族と地誌にあったため、拙著では石貝の姓をとりました。 |